イチローに幸運を

 

所長の髙田です。

 

 

イチロー選手が引退を発表しました。

 

不世出のスーパースターが、最後に日本の華やかな引退の舞台を

用意してもらえたのは、本当に良かった。

 

ただ1年前の「会長付特別補佐」という肩書に就任した時が、

事実上の引退だったと思います。

 

自分は比べるべくもない小さな存在ですが、同じ1973年生まれの

人間として、イチロー選手に自分自身の人生も投影してしまうところが

あります。

 

その1年前に思いのままに書いた文章があったので、再度載せてみます。

 

 

イチロー、お疲れ様でした。

 

 

2019322

 

高田

 

 

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イチローの「生涯契約」のニュースには感慨深いものがあった。

引退では無いとは言うものの、完全な選手の立場では無くなったということは

間違いなく、リタイアの一歩手前の状態にはなったということ。

イチローの熱狂的なファンではないけれど、プロ野球界のスーパースターだから、

当然色々覚えている。

それにイチローと同い年で、通っていた高校と、イチローが通っていた高校は

地下鉄で2駅違うだけだから、どうしてもシンパシーは勝手に感じてしまう。

 

イチローがMLBに挑戦したのは2001年。ちょうど21世紀になった年。

イチローは既に日本プロ野球のスーパースターだったけど、今みたいにBSCS

放送は充実しておらず、ネット中継も無い時代で、地上波でパ・リーグ中継

観ることはほぼなかった。

イチローの活躍をテレビで観るのはスポーツニュースやオールスター戦、オリックスが

日本シリーズに進出した時くらいで、当時のパ・リーグの球場はどこも閑散としており、

不世出の野球選手のイチローにとっては、不遇の時代だったかもしれない。

 

イチローが日本プロ野球界で活躍していた20世紀末、ノストラダムスの大予言や

2000年問題で世間が騒いでいた頃、自分は産業医大の学生だった。

入学は19964月、卒業は20023月。

20014月からは大学6年生で、卒業試験や国家試験が近づき、精神的に

浮足立っていた時だったので、本当に学生気分だったのは大学5年生まで。

だから自分にとっては20世紀までが、なんだかんだ気楽だった時代。

 

ただ産業医大は、自分にとって2つめの大学。

最初に通った大学は、19944月に入学した立命館大学理工学部。

京都のイメージの強い立命館大学が、滋賀県草津市に新しくキャンパスを作った年。

入学したのはそのちょうど1年目だった。

2浪しても医学部が全て不合格で、途方に暮れていた3月中旬、

立命館大学理工学部がセンター試験だけで出願が出来て、合格していた。

深い考え無しで合格したけど、このまま実家暮らしで浪人生活を続けたら

コイツは心底ダメになると、俺の底知れぬダメさを看破した母親が、医学部になんか

こだわるなと、入学を勧めてきた。

医学部を諦めきれない見栄っ張りな俺は、このまま3浪するよりは、大学に行きながら

受験勉強した方がカッコいいよな、というバカな想いで入学を決めた。

 

ピカピカのキャンパスだったけど、何故京都じゃないんだ?という思いや、

医学部に合格しなかったという屈折した思いが入り混じり、素直に馴染めなかった。

でも初めての1人暮らしは本当に楽しく、また実家暮らしの有難さも痛感させられた。

俺はこの立命館大学時代の2年間で、食べ物の好き嫌いが無くなり、

何でも有難く食べられるようになった。

 

当時、バカのくせにプライドだけは3人前だった自分は、

「医学部と比べたら、理工学部なんて…」

と、医学部を全部落ちているくせに見下していた。

しかしドイツ語や電子物理学、数学、プログラミングなど、講義は難しく、

表向きは余裕ぶっていたけど、必死に勉強しないとついていけなかった。

ただ友達と大学で勉強するのは楽しく、1年目の単位は順調に取得していくうちに、

大学というのは入学してからが本当の勉強なんだ、という当たり前のことを実感した。

 

でも医学部受験は自分の中では既定路線だったので、理工学部1年の冬、

医学部を再受験した。

親からは、絶対医者になれなんて言われたことは一度も無かったけど、

自分自身に全く自信がなかったので医師という資格があれば安心かな、

という漠然とした思いはあった

ただどちらかというと、周囲が医学部に行くので自分もなんとなく行きたいという、

医師になりたいという思いではなく、医学部に合格したいという屈折した思いだった。

 

立命館大学での勉強と並行して受験勉強もしていたが、気が付けば、

"理工学部に在籍したまま華麗に医学部に転籍するんだ" だと、

浮ついた想いばかりで、必死になっていない甘ったれのいつもの自分が居た。

秋田大、産業医大、関西医大、大阪医大、近畿大と受けたが、結局全て落ちた。

医学部再受験失敗が確定した19953月が、人生で初めて死にたいと思った時。

京都の河合塾からの帰路、当時暮らしていた最寄り駅の草津駅で降りる気がせず、

そのまま終点の長浜駅まで行き、フラフラと琵琶湖まで歩いて行った。

死のうかと思ったけど、どうすればいいか分からず、当時気分転換に時々行っていた

琵琶湖に自然と足が向いていた。

 

でも琵琶湖はダメな自分をいつも優しく迎えてくれ、しばらく呆然と琵琶湖を見ていたら、

とりあえず死ぬ気はおさまった。最初からそんな勇気は無かったと思うけど。

そのまま当時暮らしていたマンションにフラフラ戻ったところ、FAXで手紙が届いていた。

母親からだった。まだメールが無い時代。

手紙を読むうちに、親の懐の深さと、人生の困難に死ぬ気で立ち向かうのが恐ろしく、人生を逃避しようとしていた自分自身の不甲斐なさや臆病さを同時に痛感し、

人生で初めて裸の自分自身と本気で向き合った。

あの瞬間が、自分自身の余計なプライド、というよりは見栄が全て削げ落ちた時。

今まで自分自身の心の安定のために、根拠もなく散々周囲を見下していたけど、

結局一番愚かだったのは自分自身だったということに、気が付いた。

気が付いたというよりは、とっくに知っていたけど、怖くて目を向けられなかった。

 

母親は40歳で医学部に入学し、46歳で研修医を始めた人。

俺はたかだか21歳での失敗で、人生を全て放棄しようなどと思ってしまった。

本当に必死で努力したかというと、立命館大学生になって浮ついた気持ちで、

心から真剣に受検勉強していなかったことは、自分自身がよく分かっていた。

初めて小さな見栄など全て捨てて、人生の困難に必死で立ち向かおうと決心した。

 

あまりに遅過ぎた覚醒だったけど、あの立命館大学の2年間は、人生の転機として、

強く印象に残っている。

あの時に自分自身と向き合えた経験や、受験失敗を繰り返して負った心の傷が、

今も産業医としてメンタルヘルス面談をするときに、自然と活きている。

 

立命館大学2年生の時に、自動車免許を取ったが、その時母親から、

 

お前は大学受験を失敗して、人生が辛いって思っているだろうけど、

そんな人生小さ過ぎる。

医師免許なんかより人生で役に立つのは自動車免許だ。

人生は大きい。車の免許も取らないで、何が医師免許だ。

 

と言われたのを、今でも強烈に覚えている。

 

人生で唯一丸刈りにしたのも、この立命館大学2年生だった時。

初めての自動車免許証の顔写真は、丸坊主だった。

臆病なので、せめて気合を入れようと思って、丸刈りにした。

医学部を落ちまくっていた自分にとって、努力して合格した証明書をもらったことは、

思いがけない喜びで、自動車を運転出来るということが、人生の可能性が

広がったような気がして、受験への勇気、というよりは生きる勇気を得た。

 

でも仮面浪人で医学部を受験するのは、これで最後にしようと思っていた。

もしまた全部落ちたら、立命館大学を退学して、一人で大阪に行ってバイトで

生計を立てながら、医学部受験を続けようと決心していた。

もうこれ以上、親に家賃や学費を負担させるのが、精神的に限界だったし、

何より理工学部に真面目に勉強している同級生に失礼だと思った。

その時は親には何も言わずに、草津を引き払って大阪に行き、いつか合格したら、

親に連絡しようと思っていた。

そんなことをしたら、親が警察に捜索願を出すところだったと今では思うが、

当時の自分の幼稚な思考では、それが精一杯の決意だった。

 

人生最後のセンター試験は、滋賀で受験した。

その年の正月は実家に帰らず、一人で草津の寒いワンルームマンションで過ごした。

その前年、実家に戻ってセンター試験を受け、自己採点で絶望的な点数だった

ことを、家族に八つ当たりをした自分の情けなさがほとほと嫌になり、

センター試験が出来ても出来なくても、結果は一人で全て受け止めようと思っていた。

 

マンションの殆ど全ての人が帰省して、静かな部屋で迎えた不安一杯の元日

元日の夕食くらいは豪華にしようと、コンビニにかつ丼を買いに行ったら、顔なじみの

店員さんが、賞味期限も近いし今日はタダでいい、と言ってくれた。

驚いて有難く頂戴したけど、今となれば、元日に暗い顔をしていたやせ細った俺を、

恐らく心配してくれたんだろうなと思う。

勉強をしていてなかなか問題が解けないとすぐ不安になり、逃避行動で眠くなって

しまうので、なるべく満腹にならないよう、食事は朝のロールパン2個と、

夜のカップ麺1個、あとは野菜ジュースだけで過ごしていたので、ガリガリだった。

 

ガリガリと言えば、人生最後のセンター試験の10日前に、気分転換に少しテレビで、

アントニオ猪木VSビッグバン・ベイダーの試合を観た。

当時50歳を過ぎて、全盛期からは遙かにガリガリにやせ細った猪木が、

100kg近く体重が重いベイダーに、本気でリングに投げつけられ叩きつけられ、

顔も髪もボロボロの悲惨な姿を全国中継でさらしているのを見て、どんな仕事であれ、

生きるというのは大変なんだということを教えられた気がした。

 

当時暮らしていたワンルームマンションは、部屋とミニキッチンの境のドアが無く、

玄関扉の冷気がそのまま部屋に入ってきて、エアコンの温風もそのまま玄関扉から

出てしまい、全くエアコンも効かないような部屋だった。

電気代が勿体ないので、エアコンは使用せず、電気ストーブだけ使っていた。

寒くて電気ストーブをつけたまま寝た時、ホットケーキのような香りで目が覚めたが、

誰も朝食など作ってくれる訳は無く、危うく毛布が燃える寸前だったこともあった。

玄関扉からの冷気を何とか防ごうと、キッチンと部屋の境に、ゴミ袋をハサミで切って

カーテン代わりにしたが、効果は無く、ただひたすら寒かった。

小さなベランダもなく、小さな窓があるだけで、その窓も当然薄い1枚ガラス。

窓からの冷気もひどく、案の定センター試験2日前に風邪をひき、高熱が出た。

試験当日も治らなかったが、逆に闘志が沸き一人でセンター試験を受けに行き、

2日間必死で闘った。

鏡を見たら、抵抗力が落ちていたせいか、片目がものもらいで腫れていた。

 

当時はセンター試験が終わると、予備校がラジオで解答速報を流していた。

試験から帰宅すると、実家からFAXで解答速報が届いていた。

あまりに綺麗な用紙だったので、予備校からFAXでも流れたのかな?と思ったら、

父親がラジオを聴いて綺麗に作ってくれたとのことだった。

親の有難さに涙が出た。

 

最後のセンター試験は自己採点で、800点満点で 721点だった。

今まで受けたセンター試験や模試でも見たことが無い点数だったので、

計算間違いをしていると思い、何度も計算したが、やはり 9割とれていた。

自分がこれだけ出来ていることは、医学部を目指す他の人達も当然出来ているとは

思ったけど、初めて医学部を受験する資格を手に入れることが出来た気がした。 

結局大学受験は、高校を卒業した1992年から、立命館大学2年生だった

1996まで、長い時間続いた。

自分自身の甘えが治るには、それだけの時間が必要だったのかなと今では思う。

 

そんな中、イチローの名前を初めて知ったのは、1992年にジュニアオールスター戦で

MVPとったという新聞記事。

そしてイチローがあっという間にスーパースターになり、MLBに挑戦した2001年の翌年、

俺は研修医として、ようやく社会に出た。

イチローのMLBでの華々しいニュースを毎年横目に眺めながら、自分は気が付けば

専属産業医となり、同時に健診業務や、博士論文を書いたりして、もがいていた。

 

イチローの200本安打が途切れ、マリナーズから移籍した頃、不安一杯の中、

40歳までに挑戦をしたい想いで、常勤の職を辞し、今の事務所を開業した。

開業後は、休日不要、2泊以上の旅行はしない、という決意で、大学受験時代を

今一度思い出し、仕事をした。

生活がなんとか軌道に乗ったと感じた時、気が付けばイチローは白髪だらけだった

改めて自分の顔を見てみたら、顔が垂れ下がり、ほうれい線が目立ち、

髪は薄くなり、髭に白いものが目立つ、疲れたおっさんの顔が鏡に写っていた。

仕事を一生懸命しているうちに、イチローも自分もすっかり歳をとっていた。

 

学生時代は人生は無限に続くような感覚だったが、今は、人生は限りあるもの、

光陰矢の如し、という思いがすっかり強くなった。

昨年愛猫が死んだことも、その思いに拍車をかけている。

今回のイチローのニュースを見て、時間が過ぎてしまったことを改めて実感した。

イチローと比べたら塵のような存在だけど、同じ44歳の人間ということと、

子供がいないという共通点がある。

もし子供がいたら、イチローは今回どうしていたんだろうか、と思ってしまう。

 

「大人」になるという意味は、大きく分けて3つあると個人的には思う。 

『加齢』と、『経験を積む』という意味、そして 『親になる』 という意味。

この三つが揃えば、「大人」としての人生の方向性がある程度決まってくると思う。

ただ親にはならない、もしくはなりたくともなれない場合、人生の方向性を定めることが

困難になることはあると思う

少なくとも今の自分はそう。

 

子供が居れば、子供を軸足とした人生になると思うし、それが自身の遺伝子を

世に残す本能のある生き物としては、本来当然の帰結なのかもしれない。

しかし実際に子供が居ない場合、何を軸足にして、人生を過ごせばいいのだろうか。

今の俺は、家族や愛猫達を守ること、そして仕事を通して社会に貢献することを、

人生における軸足としている。

でもそれは、自分自身が人生を終えた瞬間、全てが消え去ってしまうもの。

だからなのか、頑張っている若い人を見ると、すぐ勝手に応援したくなってしまう。

加齢と経験は積んだけど、親にはなれない自分は、これからも自問自答しながら、

人生を漂流していくのかな。

イチローは、これからどう人生を漂流していくのだろうか。

 

歳をとるということは、今の俺には切ないこと。

歳をとることを、素晴らしいと思える日は来るのだるうか。

もう少し人生を頑張ってみないと分からないのかな。

これからも人生の同級生のイチローの幸運を願い、自身の人生をもがき続けよう。

 

 

平成30年5月

 

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高田労働衛

コンサルタント事務所

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