所長の徒然なるままに

 

所長がその時の気分次第で、ダラダラとなんとなく書いています。

4.イチローのニュースに思う

 

イチローの「生涯契約」のニュースには感慨深いものがあった。

引退では無いとは言うものの、完全な選手の立場では無くなったということは

間違いなく、リタイアの一歩手前の状態にはなったということ。

イチローの熱狂的なファンではないけれど、プロ野球界のスーパースターだから、

当然色々覚えている。

それにイチローと同い年で、通っていた高校と、イチローが通っていた高校は

地下鉄で2駅違うだけだから、どうしてもシンパシーは勝手に感じてしまう。

 

イチローがMLBに挑戦したのは2001年。ちょうど21世紀になった年。

イチローは既に日本プロ野球のスーパースターだったけど、今みたいにBSCS

放送は充実しておらず、ネット中継も無い時代で、地上波でパ・リーグ中継

観ることはほぼなかった。

イチローの活躍をテレビで観るのはスポーツニュースやオールスター戦、オリックスが

日本シリーズに進出した時くらいで、当時のパ・リーグの球場はどこも閑散としており、

不世出の野球選手のイチローにとっては、不遇の時代だったかもしれない。

 

イチローが日本プロ野球界で活躍していた20世紀末、ノストラダムスの大予言や

2000年問題で世間が騒いでいた頃、自分は産業医大の学生だった。

入学は19964月、卒業は20023月。

20014月からは大学6年生で、卒業試験や国家試験が近づき、精神的に

浮足立っていた時だったので、本当に学生気分だったのは大学5年生まで。

だから自分にとっては20世紀までが、なんだかんだ気楽だった時代。

 

ただ産業医大は、自分にとって2つめの大学。

最初に通った大学は、19944月に入学した立命館大学理工学部。

京都のイメージの強い立命館大学が、滋賀県草津市に新しくキャンパスを作った年。

入学したのはそのちょうど1年目だった。

2浪しても医学部が全て不合格で、途方に暮れていた3月中旬、

立命館大学理工学部がセンター試験だけで出願が出来て、合格していた。

深い考え無しで合格したけど、このまま実家暮らしで浪人生活を続けたら

コイツは心底ダメになると、俺の底知れぬダメさを看破した母親が、医学部になんか

こだわるなと、入学を勧めてきた。

医学部を諦めきれない見栄っ張りな俺は、このまま3浪するよりは、大学に行きながら

受験勉強した方がカッコいいよな、というバカな想いで入学を決めた。

 

ピカピカのキャンパスだったけど、何故京都じゃないんだ?という思いや、

医学部に合格しなかったという屈折した思いが入り混じり、素直に馴染めなかった。

でも初めての1人暮らしは本当に楽しく、また実家暮らしの有難さも痛感させられた。

俺はこの立命館大学時代の2年間で、食べ物の好き嫌いが無くなり、

何でも有難く食べられるようになった。

 

当時、バカのくせにプライドだけは3人前だった自分は、

「医学部と比べたら、理工学部なんて…」

と、医学部を全部落ちているくせに見下していた。

しかしドイツ語や電子物理学、数学、プログラミングなど、講義は難しく、

表向きは余裕ぶっていたけど、必死に勉強しないとついていけなかった。

ただ友達と大学で勉強するのは楽しく、1年目の単位は順調に取得していくうちに、

大学というのは入学してからが本当の勉強なんだ、という当たり前のことを実感した。

 

でも医学部受験は自分の中では既定路線だったので、理工学部1年の冬、

医学部を再受験した。

親からは、絶対医者になれなんて言われたことは一度も無かったけど、

自分自身に全く自信がなかったので医師という資格があれば安心かな、

という漠然とした思いはあった

ただどちらかというと、周囲が医学部に行くので自分もなんとなく行きたいという、

医師になりたいという思いではなく、医学部に合格したいという屈折した思いだった。

 

立命館大学での勉強と並行して受験勉強もしていたが、気が付けば、

"理工学部に在籍したまま華麗に医学部に転籍するんだ" だと、

浮ついた想いばかりで、必死になっていない甘ったれのいつもの自分が居た。

秋田大、産業医大、関西医大、大阪医大、近畿大と受けたが、結局全て落ちた。

医学部再受験失敗が確定した19953月が、人生で初めて死にたいと思った時。

京都の河合塾からの帰路、当時暮らしていた最寄り駅の草津駅で降りる気がせず、

そのまま終点の長浜駅まで行き、フラフラと琵琶湖まで歩いて行った。

死のうかと思ったけど、どうすればいいか分からず、当時気分転換に時々行っていた

琵琶湖に自然と足が向いていた。

 

でも琵琶湖はダメな自分をいつも優しく迎えてくれ、しばらく呆然と琵琶湖を見ていたら、

とりあえず死ぬ気はおさまった。最初からそんな勇気は無かったと思うけど。

そのまま当時暮らしていたマンションにフラフラ戻ったところ、FAXで手紙が届いていた。

母親からだった。まだメールが無い時代。

手紙を読むうちに、親の懐の深さと、人生の困難に死ぬ気で立ち向かうのが恐ろしく、人生を逃避しようとしていた自分自身の不甲斐なさや臆病さを同時に痛感し、

人生で初めて裸の自分自身と本気で向き合った。

あの瞬間が、自分自身の余計なプライド、というよりは見栄が全て削げ落ちた時。

今まで自分自身の心の安定のために、根拠もなく散々周囲を見下していたけど、

結局一番愚かだったのは自分自身だったということに、気が付いた。

気が付いたというよりは、とっくに知っていたけど、怖くて目を向けられなかった。

 

母親は40歳で医学部に入学し、46歳で研修医を始めた人。

俺はたかだか21歳での失敗で、人生を全て放棄しようなどと思ってしまった。

本当に必死で努力したかというと、立命館大学生になって浮ついた気持ちで、

心から真剣に受検勉強していなかったことは、自分自身がよく分かっていた。

初めて小さな見栄など全て捨てて、人生の困難に必死で立ち向かおうと決心した。

 

あまりに遅過ぎた覚醒だったけど、あの立命館大学の2年間は、人生の転機として、

強く印象に残っている。

あの時に自分自身と向き合えた経験や、受験失敗を繰り返して負った心の傷が、

今も産業医としてメンタルヘルス面談をするときに、自然と活きている。

 

立命館大学2年生の時に、自動車免許を取ったが、その時母親から、

 

お前は大学受験を失敗して、人生が辛いって思っているだろうけど、

そんな人生小さ過ぎる。

医師免許なんかより人生で役に立つのは自動車免許だ。

人生は大きい。車の免許も取らないで、何が医師免許だ。

 

と言われたのを、今でも強烈に覚えている。

 

人生で唯一丸刈りにしたのも、この立命館大学2年生だった時。

初めての自動車免許証の顔写真は、丸坊主だった。

臆病なので、せめて気合を入れようと思って、丸刈りにした。

医学部を落ちまくっていた自分にとって、努力して合格した証明書をもらったことは、

思いがけない喜びで、自動車を運転出来るということが、人生の可能性が

広がったような気がして、受験への勇気、というよりは生きる勇気を得た。

 

でも仮面浪人で医学部を受験するのは、これで最後にしようと思っていた。

もしまた全部落ちたら、立命館大学を退学して、一人で大阪に行ってバイトで

生計を立てながら、医学部受験を続けようと決心していた。

もうこれ以上、親に家賃や学費を負担させるのが、精神的に限界だったし、

何より理工学部に真面目に勉強している同級生に失礼だと思った。

その時は親には何も言わずに、草津を引き払って大阪に行き、いつか合格したら、

親に連絡しようと思っていた。

そんなことをしたら、親が警察に捜索願を出すところだったと今では思うが、

当時の自分の幼稚な思考では、それが精一杯の決意だった。

 

人生最後のセンター試験は、滋賀で受験した。

その年の正月は実家に帰らず、一人で草津の寒いワンルームマンションで過ごした。

その前年、実家に戻ってセンター試験を受け、自己採点で絶望的な点数だった

ことを、家族に八つ当たりをした自分の情けなさがほとほと嫌になり、

センター試験が出来ても出来なくても、結果は一人で全て受け止めようと思っていた。

 

マンションの殆ど全ての人が帰省して、静かな部屋で迎えた不安一杯の元日

元日の夕食くらいは豪華にしようと、コンビニにかつ丼を買いに行ったら、顔なじみの

店員さんが、賞味期限も近いし今日はタダでいい、と言ってくれた。

驚いて有難く頂戴したけど、今となれば、元日に暗い顔をしていたやせ細った俺を、

恐らく心配してくれたんだろうなと思う。

勉強をしていてなかなか問題が解けないとすぐ不安になり、逃避行動で眠くなって

しまうので、なるべく満腹にならないよう、食事は朝のロールパン2個と、

夜のカップ麺1個、あとは野菜ジュースだけで過ごしていたので、ガリガリだった。

 

ガリガリと言えば、人生最後のセンター試験の10日前に、気分転換に少しテレビで、

アントニオ猪木VSビッグバン・ベイダーの試合を観た。

当時50歳を過ぎて、全盛期からは遙かにガリガリにやせ細った猪木が、

100kg近く体重が重いベイダーに、本気でリングに投げつけられ叩きつけられ、

顔も髪もボロボロの悲惨な姿を全国中継でさらしているのを見て、どんな仕事であれ、

生きるというのは大変なんだということを教えられた気がした。

 

当時暮らしていたワンルームマンションは、部屋とミニキッチンの境のドアが無く、

玄関扉の冷気がそのまま部屋に入ってきて、エアコンの温風もそのまま玄関扉から

出てしまい、全くエアコンも効かないような部屋だった。

電気代が勿体ないので、エアコンは使用せず、電気ストーブだけ使っていた。

寒くて電気ストーブをつけたまま寝た時、ホットケーキのような香りで目が覚めたが、

誰も朝食など作ってくれる訳は無く、危うく毛布が燃える寸前だったこともあった。

玄関扉からの冷気を何とか防ごうと、キッチンと部屋の境に、ゴミ袋をハサミで切って

カーテン代わりにしたが、効果は無く、ただひたすら寒かった。

小さなベランダもなく、小さな窓があるだけで、その窓も当然薄い1枚ガラス。

窓からの冷気もひどく、案の定センター試験2日前に風邪をひき、高熱が出た。

試験当日も治らなかったが、逆に闘志が沸き一人でセンター試験を受けに行き、

2日間必死で闘った。

鏡を見たら、抵抗力が落ちていたせいか、片目がものもらいで腫れていた。

 

当時はセンター試験が終わると、予備校がラジオで解答速報を流していた。

試験から帰宅すると、実家からFAXで解答速報が届いていた。

あまりに綺麗な用紙だったので、予備校からFAXでも流れたのかな?と思ったら、

父親がラジオを聴いて綺麗に作ってくれたとのことだった。

親の有難さに涙が出た。

 

最後のセンター試験は自己採点で、800点満点で 721点だった。

今まで受けたセンター試験や模試でも見たことが無い点数だったので、

計算間違いをしていると思い、何度も計算したが、やはり 9割とれていた。

自分がこれだけ出来ていることは、医学部を目指す他の人達も当然出来ているとは

思ったけど、初めて医学部を受験する資格を手に入れることが出来た気がした。 

結局大学受験は、高校を卒業した1992年から、立命館大学2年生だった

1996まで、長い時間続いた。

自分自身の甘えが治るには、それだけの時間が必要だったのかなと今では思う。

 

そんな中、イチローの名前を初めて知ったのは、1992年にジュニアオールスター戦で

MVPとったという新聞記事。

そしてイチローがあっという間にスーパースターになり、MLBに挑戦した2001年の翌年、

俺は研修医として、ようやく社会に出た。

イチローのMLBでの華々しいニュースを毎年横目に眺めながら、自分は気が付けば

専属産業医となり、同時に健診業務や、博士論文を書いたりして、もがいていた。

 

イチローの200本安打が途切れ、マリナーズから移籍した頃、不安一杯の中、

40歳までに挑戦をしたい想いで、常勤の職を辞し、今の事務所を開業した。

開業後は、休日不要、2泊以上の旅行はしない、という決意で、大学受験時代を

今一度思い出し、仕事をした。

生活がなんとか軌道に乗ったと感じた時、気が付けばイチローは白髪だらけだった

改めて自分の顔を見てみたら、顔が垂れ下がり、ほうれい線が目立ち、

髪は薄くなり、髭に白いものが目立つ、疲れたおっさんの顔が鏡に写っていた。

仕事を一生懸命しているうちに、イチローも自分もすっかり歳をとっていた。

 

学生時代は人生は無限に続くような感覚だったが、今は、人生は限りあるもの、

光陰矢の如し、という思いがすっかり強くなった。

昨年愛猫が死んだことも、その思いに拍車をかけている。

今回のイチローのニュースを見て、時間が過ぎてしまったことを改めて実感した。

イチローと比べたら塵のような存在だけど、同じ44歳の人間ということと、

子供がいないという共通点がある。

もし子供がいたら、イチローは今回どうしていたんだろうか、と思ってしまう。

 

「大人」になるという意味は、大きく分けて3つあると個人的には思う。 

『加齢』と、『経験を積む』という意味、そして 『親になる』 という意味。

この三つが揃えば、「大人」としての人生の方向性がある程度決まってくると思う。

ただ親にはならない、もしくはなりたくともなれない場合、人生の方向性を定めることが

困難になることはあると思う

少なくとも今の自分はそう。

 

子供が居れば、子供を軸足とした人生になると思うし、それが自身の遺伝子を

世に残す本能のある生き物としては、本来当然の帰結なのかもしれない。

しかし実際に子供が居ない場合、何を軸足にして、人生を過ごせばいいのだろうか。

今の俺は、家族や愛猫達を守ること、そして仕事を通して社会に貢献することを、

人生における軸足としている。

でもそれは、自分自身が人生を終えた瞬間、全てが消え去ってしまうもの。

だからなのか、頑張っている若い人を見ると、すぐ勝手に応援したくなってしまう。

加齢と経験は積んだけど、親にはなれない自分は、これからも自問自答しながら、

人生を漂流していくのかな。

イチローは、これからどう人生を漂流していくのだろうか。

 

歳をとるということは、今の俺には切ないこと。

歳をとることを、素晴らしいと思える日は来るのだるうか。

もう少し人生を頑張ってみないと分からないのかな。

これからも人生の同級生のイチローの幸運を願い、自身の人生をもがき続けよう。

 

 

平成30年5月 

 

3.20年前の記憶から徒然なるままに

 

今は20184月。

 

20年前の19984月に、アントニオ猪木の引退試合が東京ドームで

行われた。

猪木の引退試合には何があっても駆けつけなければと思っていたけど、

当時大学3年生の春休み。無事に観に行くことが出来た。

 

スタンド最前列の席を、チケット発売日に購入。

当日は主催者発表7万人の大観衆。

7万人は居ないとしても、東京ドームのスタンド最後列や上段にも立ち見客が

ギッシリ。

正真正銘の超満員だったのは間違いない。俺が生き証人。

 

ただ内容は正直ガッカリ。

引退試合の相手がドン・フライというのもよく分からなかったし、

おまけに猪木が勝ってしまうのも、いくら引退試合とは言え、昔のリアリティを

追求するストロングスタイルを標榜していた猪木とは真逆の結末で、

正直気持ちが乗り切れないまま。

 

最後の引退挨拶で有名になった『道』の詩も、1989年に猪木が

スポーツ平和党を旗揚げした時に選挙事務所にその詩が飾られていたのを

知っていたので、新鮮な感動というほども正直なかった。

ただ、今まで夢を見させてくれたことへの感謝をしなければと勝手に思い、

最後まで猪木コールを叫ぶことだけを目的に観に行ったので、それが出来た

ことは良かった。

 

何の趣味も特技も無い自分が、どうしてこんなにプロレスを好きになったのか、

自分でもよく分からない。

ただ今は、プロレスを見て心から楽しいと思う事はもうない。

やっぱり猪木の引退試合の頃が最後かな。

20世紀で俺の最大の趣味も終わった。

21世紀はPRIDEKARAで少し喜んだくらいで、あとは猫のトイレの世話を

一生懸命しているくらい。

まあ、それはそれで悪くないさ。

 

CSテレ朝でやっているワールドプロレスリングクラシックスを見て、プロレスを好き

になったキッカケが、1979年の藤波辰巳とグレッグ・バレンタインの試合で

藤波が見せたドラゴンロケットということが分かった。

見た瞬間すぐ分かった。

当時6歳の記憶と完全に藤波の飛行姿勢が一致したから。

だからちょうど小学生の6年間だった1980年~1985年が、世間でもプロレスが

人気で、毎週金曜夜8時の新日本プロレスが楽しみで仕方なかった。

 

アントニオ猪木、藤波辰巳、長州力、タイガーマスク、坂口征二、

ラッシャー木村、ザ・コブラ、アンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセン、

ハルク・ホーガン、ディック・マードック、アドリアン・アドニス、

マスクド・スーパースター、ダイナマイト・キッド・・

いくらでもキラ星のごときレスラーの名前が出てくる。

 

でも名古屋では日曜昼12時にやっていた全日本プロレス中継も、

日曜の昼下がりの雰囲気に合ったマッタリとした雰囲気で、それはそれで

新日本プロレスとは好対照で好きだった。

 

ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、ザ・ファンクス、

スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ、ハーリー・レイス、ミル・マスカラス、

アブドーラ・ザ・ブッチャー、リック・フレアー、リッキー・スティムボート、

ジミー・スヌーカ・・・

こちらは外国人レスラーの豪華さがたまらなかった。

 

だから今でも歌手のSuperflyを見ると、

 

「元祖スーパーフライはジミー・スヌーカでしょ?

金網最上段からリングへダイブしたスーパーフライでしょ?

WWF認定インターコンチネンタルチャンピオンのジミー・スヌーカこそが

スーパーフライでしょ?」

 

と訳の分からないことを条件反射的に思ってしまう。

 

当時テレビ東京でやっていた「世界のプロレス」という番組も好きだった。

今みたいにYouTubeで好きに見られない時代だから、アメリカやメキシコの

試合の中継が楽しみだった。

メキシコ・ルチャリブレのロス・ファンタスティコスがカッコよかった。

試合を観たらなんかイマイチだけど。カト・クン・リー、クン・フー、ブラックマンの

3人がキャラが立っていて好きだったな。

 

ザ・ロード・ウォリアーズが番組最大のスターだと思うけど、俺はテキサスの

エリック兄弟が好きだった。

身体は小さいけど甘いマスクで、無駄な肉が一切ついていない

裸足の長男ケビン・フォン・エリック。

1984223日に蔵前国技館で天龍源一郎の挑戦を受ける予定で

来日したけど、試合前に宿泊したホテルの客室で24歳で客死した、

UNヘビー級チャンピオン次男デビッド・フォン・エリック。

当時のプロレス雑誌に載っていた、父親譲りのアイアンクローで

グレッグ・バレンタインを血祭りにあげていたモノクロ写真が衝撃的で、

タイガー・クロー、ディスカス・パンチ、素晴らしい跳躍力を武器に暴れ回った、元NWA世界ヘビー級チャンピオン、元ミズーリ州ヘビー級チャンピオン、

三男“虎の爪”ケリー・フォン・エリック。

当時大ヒットした、映画ロッキー3のテーマ曲、『アイ・オブ・ザ・タイガー』で

入場してくるのがカッコよかった、テキサスの若きスーパースター。

でも交通事故で足を切断するなんて。人生は難しいよ。

 

つい最近のように思うけど、鏡に映る俺の顔もすっかりおっさん。

もう遠い記憶かな。

だから少しでも書いておかないと、人の記憶はすぐに風化していくから

みんなすぐに忘れてしまう。

俺が死んでも惜しまれることは無いけど、昔の夢を見させてくれたプロレスラー

はいつまでも惜しまれていて欲しいから、少しでも書いておく。

みんな歳をとったけど、昔のヒーロー達には少しでも幸せに長生きして欲しい。

今日も“人間発電所”“元WWWFヘビー級チャンピオン”

ブルーノ・サンマルチノが亡くなったというニュースを見た。

プロレスラーにはいつも人生とは何だろうと考えさせられる。

 

俺には大企業の社長さんや経営コンサルタントの自己啓発本は必要ない。

人の言う事をそのまま受け取るのは、佐村河内事件のようになって危ない。

俺には表も裏もさらけ出している、昔のプロレスラーの生き様を見るだけで

十分人生の勉強になる。

プロレスを深く考えると、コミュニケーションの本質が見えてくる。

だから今年度は、パワーハラスメント防止を強化する目的で、

コミュニケーション研修に力を入れるけど、本当は時間さえあれば、

プロレスから考えるコミュニケーションなんて話をしてみたい。

その方がみんなに分かってもらえる気がする。

 

結局仕事の話になったか。

趣味は無いなぁ。

 

2.予防医学とは

 

予防医学とは何だろう

 

病気にかからないための予防のための医学

 

Wikipediaにはそう書いてある。

 

それはそれで一つの考えだろう

 

一次予防・二次予防・三次予防

 

それも一つの考え方

 

産業医学とは何だろう

 

労働者における作業関連疾患を医学的に解明・予防し

労働者の健康を維持するための学問

 

Wikipediaにはそう書いてある

 

でも健康って何だろう

 

病気にかかってないだけでなく

身体的にも精神的にも社会的にも満たされた状態

 

WHOはそう定義している

 

でも満たされるってどんな状態なんだろう

 

人間の欲望は際限がない

 

満たされることなんてあるのだろうか

 

性差とか個体差が大きそうだけど 

 

環境要因が強く影響しそうだ

 

予防医学ってみんな気軽に言葉を使うけど

 

結局誰もその定義を知らないんだと思う

 

でも定義にこだわる必要も無いのかもしれない

 

定義がなくとも時間は流れていく

 

ただ敢えて予防医学を定義するとすればどうなるだろう

 

人間は一人では生きていけない

 

それは子孫を残すため

 

ただ人間間だけではなく 

 

全ての生き物は必ず周りと共存する

 

周りの人間 周りの木々 周りの動物 周りの魚 周りの虫

 

お互いに支え合ってしか生きられない

 

それが生命体の宿命

 

そして生命体がこの世に存在する時間は必ず限られる

 

それならば少しでもお互いに長く

 

お互いに出来る限り傷つけ合わずに

 

そしてお互い助け合いながら

 

穏やかに生きていければ素晴らしいだろう

 

でも生き物は必ず傷つけ合うもの

 

何故ならば安心して生きるための場所を確保したいから

 

縄張りの意識が生き物全ての遺伝子に必ず組み込まれている

 

だから野良猫は今日も必死に縄張り争いをしている

 

人間は最も欲深い生き物だから余計に縄張り争いをする

 

だから国同士がルールを作り

 

国の中では法律や交通ルールを作った

 

赤信号で必ず停まるのは 

 

お互い縄張りを侵食せずに生きるためなのだろうか

 

女性専用車輛なるものが出てきたのは

 

女性の縄張りをすぐに侵食しようとする

 

心無い男性から女性を守るため

 

でも生命の縄張りの境界はいつも曖昧

 

だからいつも 

 

諍いがそこかしこで起きている

 

これは人間も含めた生き物の宿命なのだろう

 

でも少しでも

 

皆が穏やかに生きられる世の中になって欲しい

 

そのためには怒りを抑える精神が必要

 

怒りを抑える事は欲望を抑える事

 

謙虚な精神が必要になる

 

謙虚な精神は日々の節制で培われる

 

でも一人の節制では限界がある

 

我々は皆 現世という運命共同体の一員

 

全員で節制しなければならない

 

そのためには個人の金銭欲や名声欲に影響を受けていない

 

シンプルな知識が必要

 

その知識に基づき毎日節制すれば

 

謙虚な精神が培われる

 

毎日の節制とは

 

日々の食事や日常活動 

 

そして考え方を謙虚にすること

 

一人の謙虚な活動は

 

周りを謙虚にしていく

 

そうして広がった謙虚さは

 

人間を囲む労働環境や生活環境を良くする

 

それらの謙虚な日々の活動プロセスが

 

大脳の過剰な興奮を抑え

 

自律神経のバランスを保ち 

 

血管の老化を遅らせ 

 

筋肉量の低下を遅らせ

  

骨密度の低下を遅らせる

 

人間は大脳を起点にして

 

神経・血管・骨・筋肉で全身が連結されている

 

だから大脳を保護して

 

連結帯の神経・血管・骨・筋肉の機能を維持することが

 

健康寿命を延ばすということを意味するのだろう

 

そのためには

 

それらに影響を与える内的要因を改善すること

 

そして外的要因をも含めて改善すること

 

つまり全人的に捉えるだけでなく

 

周囲に存在する人間や 

 

周囲の環境も含めて捉える

 

そして人間に影響を及ぼすそれらの要因

 

つまりストレッサーにより

 

最も敏感に反応するのは自律神経

 

つまり自律神経機能を常に評価し意識することが

 

人間を包括的に評価する際の指標となりうる

 

そのように人間に与える影響を

 

限りなく広い見地から考え

 

全ての外的・内的要因の影響を受ける

 

自律神経の機能を評価することで

 

人間に与えている現在のストレッサーを評価し

 

そしてストレッサーの改善を図ることで

 

大脳・自律神経・血管・骨・筋肉の機能を維持し

 

穏やかで謙虚な精神を保つ

 

そのことが周囲に好影響を及ぼし

 

お互いが支え合い

 

限られたこの現世の時間を

 

出来る限り穏やかに過ごし

 

そして後世に財産を残していく

 

その人間の生死と人間社会のサイクルに

 

医学を通して貢献することこそが

 

予防医学なのでは

 

と思うようになりました

 

文章が長過ぎましたが

 

簡単に予防医学は語れないです

 

だって臨床医学は

 

内科外科を始め数多くの科に分かれてるのに

 

方や予防医学は 

 

予防医学という言葉一つだけ

 

でも予防医学の分野を細分化しないことこそ

 

包括的に人間を捉えるという

 

予防医学の本質を表すのかもしれない

 

だから予防医学を

 

公衆衛生学だの

 

衛生学だの

 

産業医学だの

 

いちいち分けて考える必要なんて無いと思う

 

でも予防医学という分野が最初からあった訳ではなく

 

先人たちが公衆衛生学や産業医学という学問を

 

一生懸命に蓄積してきたからこそ

 

今の現代において

 

俺ごときがそれらの学問を土台に

 

予防医学という言葉について考えることが出来ているのだろう

 

だから答えは一つなのではなく

 

先人たちの教えを守りながら

 

自分自身で一生探し続けるものなのかもしれない

 

だからこれからも一生懸命に謙虚に生きて

 

自分なりの予防医学の定義を考えていきます

 

でも一つ言えるのは

 

1人の医師としては

 

1人の人間としては

 

目の前の人が1人でも笑って喜んでくれれば

 

それが一番嬉しいなということ

 

それがあれば

 

予防医学の定義なんて不要なのかもしれない

 

 

 

平成30年2月

 

1.旅人のように

 

(所長)のような「開業産業医」「独立系産業医」という医師の

業務形態は今、爆発的に増えていますが、それぞれ業務における

行動パターンは異なっていることだと思います。

 

産業医と聞くと、どこかの病院やクリニックの先生が会社にやって来る

というイメージを持つことが殆どだと思いますが、

私のような常にあちこち移動している変わった医者も居るんだということ

を知っていただければと思い、ここに私の訪問記録を記しておきます。

 

私は嘱託産業医の他、病院での人間ドック業務、大学での非常勤講師、

人間ドック学会の機能評価サーベイ業務、学会・研修会への参加などで、

日々あちらこちらに行っています。

 

私は基本的にアグレッシブではなく、生来ものぐさな人間です。

 

休みの日には何もせずにボケっとしていることが殆どです。

 

どこかに旅行に行きたいと頭の中では色々な計画が浮かぶのですが、

結局めんどくさくなり、やはりボケっとしているだけで休日は終わって

いきます。

 

しかし不思議なことに仕事関連のことになると、どこまでも行ってやろう

という気持ちになります。

 

生活のために追い詰められた結果なのかもしれませんが、

幼い頃に好きになったプロレスの地方巡業の風景に、自分自身を

投影しているのかもしれません。

 

私の幼い頃のヒーローは、地元名古屋の中日ドラゴンズではなく、

同じドラゴンでも、ドラゴン藤波・・・プロレスラーの藤波辰巳でした。

 

リングを真剣にそして軽快に走り回る姿、リングの外へ飛んでいく

ドラゴンロケット、私が生まれて初めてプロレスを生観戦した

愛知県体育館大会で見せてくれたドラゴンスープレックスホールド。

 

今やすっかり遠い記憶になってしまいましたが、プロレスラーが地方の

果てまで行って試合をしてお客さんを楽しませる姿に憧れと哀愁を感じ、

その人間臭さに共感した幼い頃の感覚は、良くも悪くも今の私の人格を

形成する大きな要因となっています。

 

気が付けば、私は日々、色々な街に移動しています。

 

あの時見たプロレスラー達のように、訪問先の人々に喜んで欲しいと

願って、日々人生を旅しています。

 

 

基本的には毎日、愛知・岐阜・三重の三県を移動していますが、

それ以外の地域にも行っておりますので、その訪問記録を記します。

 

 

【現在の定期訪問地域】

 

・愛知:名古屋市(産業医、人間ドック業務)、小牧市(産業医)、

    一宮市(人間ドック業務)

 

・岐阜:岐阜市(産業医)、安八郡(産業医)

      関市(産業医、人間ドック業務、大学講師)

 

・三重:鈴鹿市(産業医)、いなべ市(産業医)、東員町(産業医)

  

 

【定期訪問以外の過去の訪問地域】

 

2017

 

1月:千葉市(学会)

2月:福井市(サーベイ)

3月:大阪市(産業医)

   広島市(産業医)

4月:東京都2回

  (学会、サーベイ)

5月:高松市(学会)

   福岡市(産業医)

   静岡県田方郡

  (サーベイ)

6月:東京都(学会)

7月;東京都(学会)

   札幌市(産業医) 

8月:大阪市(産業医)

     大宮市(学会)

9月:広島市(産業医)

     大阪市(研修)

11月:東京都(学会)

      北九州市(学会)

      福岡市(産業医)

 

2016

 

2月:静岡県沼津市

   (サーベイ)

3月:福岡市(サーベイ)

4月:東京都(学会)

5月:福岡市(産業医)

   札幌市

  (産業医、サーベイ)

6月:東京都(学会)

   横浜市(学会)

     大阪市(学会)

7月;大宮市(サーベイ)

     松本市(学会)

8月:広島市(産業医)

9月:東京都(サーベイ)

11月:札幌市(産業医)

12月:福岡市(産業医)

 

2015

 

1月:福岡市(サーベイ)

2月:大阪市(研修)

3月:大阪市2回

  (サーベイ、学会)

4月:京都市(学会)

   東京都(学会)

   仙台市(サーベイ)

5月:福岡市(学会)

6月:金沢市(産業医)

     東京都(学会)

7月;福岡市(サーベイ)

     横浜市(学会)

8月:広島市(サーベイ)

9月:東京都(サーベイ) 

11月:松山市(サーベイ)

      静岡市(サーベイ)

 


平成30年1月

高田労働衛

コンサルタント事務所

名古屋市中区丸の内2丁目

(地下鉄丸の内駅2番出口徒歩1分)

    所長  高田 幹 

      猫所長  マハロ 

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